家族

近所に小さなカジュアルなバーがある。
それほど栄えていない、商店街も何もない通りなのだが、そこで営業している。
山小屋風で、ちょっとした食事ならできそうな感じ。
小さな窓から、入り口のドアのガラスから、中の様子が少し見えるのだが、いつも少人数の人が何やら居ついているようで、一見さんは少し入りづらい雰囲気だ。
もう、10年以上ここに住んでいるのだが、そこには行ったことがない。
しかし、お客さんはずっと変わらずにいるようだ。

もしかしたら、これって新しい家族の形なのかなと思っていた。

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ほかに近所に小さな喫茶店もある。
ここも潰れることなく営業を続けている。
特に、本当に何もないところなので、近所の人が常連として利用しているのだろう。
ここにも一つのファミリーがある。

病気になれば心配するし、困ったことがあれば相談に乗ってくれるし、解決できるだろう人やモノや場所を紹介してくれるかもしれない。
「新しい家族の形なのかなと思ってた」と書いたのは、勝手にそのように思っていたということで、この星野源さんのfamily song制作にあたってのインタビューを読んでみると、同じようなことを考えていたようでうれしくなった。
同じ時代を生きるものとして、同じことを感じていたということは、そのことに関して確信めいたものを得たし、きっと、言葉にはうまくできないが、それは必然なことで、そのように感じている人はもっと他にいることだろう。

ソフトバンクのCMでも家族ということが取り上げられているが、あれはちょっと違う。
単に家族割りというサービスを売りたいだけだ。

昔の家族の形は、少しは残っているものの、だんだんと壊れてきている。
おじいちゃんおばあちゃんがいて、おとうさんおかあさんがいて子供が何人かいて、というようなサザエさんに代表される大家族も存在しているほうがまれだと思うし、核家族化なんて言葉もはるか昔にあったなと思う程度で、今やシングルマザーが増え、独身者も増え、源さんも言うように、両親が同性だったりすることもあるような現代では、その「家族」という言葉はもっとこう違った意味合いを持つようになってきたと感じる。

しかし、いまだに昔の文脈で「家族」という言葉を使っているのがテレビで、その「家族」意味合いに当てはまらない人のほうがもしかしたら多いかもしれないのに、依然として変わることがないようで、そこになんだかズレや居心地の悪さを感じている人も多いことだろう。

そんな人たちにこのfamily songという歌はフィットしたのではないか。何かが違うという漠然とした想いをうまいこと表現して形にしてそのような人に届けたのだと思う。

旧家族のつながりが希薄になってきたその代わりに、新家族というか新しい家族のくくりが強くなってきて機能し始めているのかもしれない。
私はプロの独身だからなおのことそのようなことを考えるのかもしれないが。
一緒に住んでいるいないにかかわらず、ましてや近い遠いにも関係なく、相手や仲間のことを思いやる気持ちのつながり、というか。

少人数の会社なので、会社にも家族的なつながりを感じることもあるし「ファミリー企業」なんて言葉の使い方をする。ゴッドファーザーのようなあれ系の映画ではそのグループをファミリーと言ったりする。
しかし、ここには利害関係があるので少し意味合いが違うだろう。家族という言葉を、ずる賢く利用している感じさえする。
マンガでいえば、3月のライオンの主人公である桐山零と川本三姉妹との関係は立派な家族だと思う。ここまで深いつながりで結ばれたらもう法律上のことなんてあまり意味がない。現実には、関係がもっと希薄な法律上の家族もいるのではないか。
「法律上の家族の意味を越えて行け」ということなのだ。
旧社会の枠組みでは生きづらい今の世の中なのは確かなことだろう。
毎朝、近所のコンビニに立ち寄るのだが、そこの女性店員が、いつも来ているだろうおじさんに「行ってらっしゃい」と声をかけるのを耳にすることもある。
まぁ、気の利いた店員さんならいつの時代もそんなことを言うかもしれないし、もしかしたら時代がそのように感じさせてしまうのかもしれない。

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とにかく現代の人々は「新しい家族」というくくりを求めて無意識のうちに行動し始めているのかもしれない。
人間はやはり家族というある種の人々の集まりの中で古代から生活してきた生き物なのだから。
会ったこともないネットだけのつながりのことはここでは当てはまらない。
法律上の家族ではないが、顔を見ただけで「疲れた?」と聞いてくれるような、そんなことを言ってくれるような人がやはり必要なのだと思う。